東日本大震災のあの日

2011年3月11日の14:30、石巻市内で遅い昼飯を食べるべく約束のあるお客様近くで、中華料理店に入った。既にランチ時間も終わり頃、客は自分が最後だったと思う。直ぐに料理は提供され、いざ食べようと箸を付けたその時だった。いきなり始まった揺れは縦揺れと横揺れを伴い、直ぐに大きい直感した。携帯電話の緊急地震速報が鳴る中、驚いて席を立ったもののテーブルを押さえてないと立って居られない。料理のスープはお盆の中に見事にこぼれ落ちた。建物は大きく揺れ、店内の壁の装飾品は床に落ち、幾つかあった植木鉢は皆落ちたり倒れた。「大丈夫かっ?!」と店の奥から店長らしき男性の声。サービスカウンター内に居る女性の店員さんは、必死にビールサーバなどが倒れないよう手で押さえながら「店長、未だお客さんがいらっしゃるんです!」と困った様子で助けを求めるように叫んだ。

揺れはなかなか収まらず、そのうち照明は消えて停電になったのが判った。お店の外の駐車場の車は飛び跳ねてるように見える。アポイント時間が迫る中、気になって時計を見ると3分近く揺れ続けている。このままではお店が壊れるんじゃないか?!と思い始めたところで、やっと揺れが収まった。

奥から店長らしき方が見え「お客さん、お代は結構なので急いでお帰りになった方が良いですよ」と促されて店を出た。そして何も無かったように、アポイント先の病院に向かったのだった。そして院内に入って初めて我に返った。暗くなった院内は、倒れた植木鉢や壁の絵画が落ち、椅子は散乱。受付カウンターには取り乱した患者さんが対応を求めていた。

その中に混ざり、15時からのアポイントで参りましたと言うと否や怪訝な顔をされたので、慌てて「ですが、こんな状態なので日を改めます」と言い直すと、そうですよねぇと言わんばかりに無言で大きく頷かれた。

病院を出て初めて事の重大さを実感し、急ぎ帰る事を最優先事項に据えた。急ぎながらも慌てるなと自分に言い聞かせ車を走らせる。どの車も急いでるように見えた。案の定、大きな国道に出ると直ぐに渋滞に巻き込まれると同時に、あちこちからサイレンが鳴り「津波が近づいて居ります。車をおりて、急いで高台に逃げてください」とのアナウンスが聞こえる。

これはまずいと大型ショッピングセンター屋上の駐車場に入ろうとすると、既に入口には進入禁止の看板が設置されてる。その後向かった高速道路入口も同じ状況で、高速道路は使えないと判った。急いで進路を変え、幹線道路や細道を使い、山へ山へと向かうつもりで車を走らせた。

不思議だったのは、山へ向かう自分とは対照的に、殆どの車は海の方に向かって走っていたこと。恐らくは自宅に向かって急いで居たんだろう。そのお陰で逆行する形となり、程なく渋滞を抜ける事が出来た。流石にここまでは津波も来ないだろうと内陸部に入ったが、そこでも尚、四方八方からサイレンが鳴り響き、津波が近づいてますとのアナウンスが再び響き渡る。

降雪の中帰る途中、河川脇を川に沿って走る道では、河川が逆流してるのに驚かされ、更にその濁った川の中には家の屋根が見え隠れしている。恐ろしい光景を目の当たりにした。

また信号が機能しないだけでなく、倒れかけた電信柱や、切れて垂れ下がった電線が道路を妨げてる交差点もあった。そんな中、立ち往生する大型クレーン車を横目に、暗くなった中、急いで家に向かった。

携帯電話は繋がらないのに、不思議とTwitterだけは通じていた。他のSNSも問題なく使えたとあとで知った。その後パケットを占有しない分、震災の時など実用的だと皆が知ることとなる。そして会社の方との連絡は、全てTwitterで行い、自分が無事である事を申し伝えたのだった。

いつもなら一時間で帰れる道のりを、真っ暗な道を三時間半かけて帰宅。当然ながらマンションも真っ暗なまま。階段を使って家に入ると、子供達は布団にくるまって居て、皆無事で安心した。停電中はエアコンも使えなかったが、幸いマンション内は暖かく、暖をとらなくても着込んで過ごす事が出来た。照明代わりの懐中電灯がフル活用。マンションの集会室が避難場所として機能していた事もあとで知った。

それから電気が通じたのは三日目の夜中。久し振りに照明が点灯し、テレビをつけた時、初めての地震津波の映像に釘付けとなった。

そしてその数日後、原発事故を目の当たりにするのだった。