コロナ禍のオリンピック

 東電福島第一の原発事故から間も無く10年、その時点で放射線は「Under Control」と言い切った安倍前首相のセールストークもあり、招聘することとなったオリンピック。

 自分も含め当初からコロナに関わらず、東京オリンピックに同意しない方々も居たが、微々たる叫びはそれを中止させることは出来なかった。放射能廃棄物の方向性を明確に示すことも出来ないまま、最終処分場どころか中間貯蔵施設すらも決まっていない状況の中、スポーツの祭典を行う国に適しているのか?そして、温暖化で異常気象が続く真夏の大都市東京で、日中の気温が35度を超える都市で、スポーツを行うリスクをとっても経済的な利益を優先して良かったのだろうか?程なくして東京が2度目のオリンピックを開催する都市となった。

 そんなところに待ったをかけるようにコロナ禍がやって来た。

 しかし人類がコロナを克服したことを見せつけるべく、一年延期となった東京オリンピックは、結局はその目的も達成出来ないまま、開催する運びになった。冷静になって考えれば、オリンピックにかけて動いて来た大きなお金も、無かった事には出来ない大人の事情もあるのだろう。

 そのような状況下、政府の当初の予想に反して新型コロナウィルスが日本にやって来てから一年以上が過ぎた。コロナ禍にあっても政府は安心安全な開催は可能だとのスタンス。しかし一方で緊急事態宣言はいつでも発する可能性があるとも曰う。

 程なくして世界各国から選手や関係者が予定通り来日し、関係者の中からも感染者が出て来ている。予定通り?7月中に東京の感染者数は3千人を超え、全国の感染者数も1万人を超えた。専門部会の尾木会長も8月中旬には全国の感染者数は3万人を超えるだろうとのこと。この先の行方は如何に。

 

東日本大震災のあの日

2011年3月11日の14:30、石巻市内で遅い昼飯を食べるべく約束のあるお客様近くで、中華料理店に入った。既にランチ時間も終わり頃、客は自分が最後だったと思う。直ぐに料理は提供され、いざ食べようと箸を付けたその時だった。いきなり始まった揺れは縦揺れと横揺れを伴い、直ぐに大きい直感した。携帯電話の緊急地震速報が鳴る中、驚いて席を立ったもののテーブルを押さえてないと立って居られない。料理のスープはお盆の中に見事にこぼれ落ちた。建物は大きく揺れ、店内の壁の装飾品は床に落ち、幾つかあった植木鉢は皆落ちたり倒れた。「大丈夫かっ?!」と店の奥から店長らしき男性の声。サービスカウンター内に居る女性の店員さんは、必死にビールサーバなどが倒れないよう手で押さえながら「店長、未だお客さんがいらっしゃるんです!」と困った様子で助けを求めるように叫んだ。

揺れはなかなか収まらず、そのうち照明は消えて停電になったのが判った。お店の外の駐車場の車は飛び跳ねてるように見える。アポイント時間が迫る中、気になって時計を見ると3分近く揺れ続けている。このままではお店が壊れるんじゃないか?!と思い始めたところで、やっと揺れが収まった。

奥から店長らしき方が見え「お客さん、お代は結構なので急いでお帰りになった方が良いですよ」と促されて店を出た。そして何も無かったように、アポイント先の病院に向かったのだった。そして院内に入って初めて我に返った。暗くなった院内は、倒れた植木鉢や壁の絵画が落ち、椅子は散乱。受付カウンターには取り乱した患者さんが対応を求めていた。

その中に混ざり、15時からのアポイントで参りましたと言うと否や怪訝な顔をされたので、慌てて「ですが、こんな状態なので日を改めます」と言い直すと、そうですよねぇと言わんばかりに無言で大きく頷かれた。

病院を出て初めて事の重大さを実感し、急ぎ帰る事を最優先事項に据えた。急ぎながらも慌てるなと自分に言い聞かせ車を走らせる。どの車も急いでるように見えた。案の定、大きな国道に出ると直ぐに渋滞に巻き込まれると同時に、あちこちからサイレンが鳴り「津波が近づいて居ります。車をおりて、急いで高台に逃げてください」とのアナウンスが聞こえる。

これはまずいと大型ショッピングセンター屋上の駐車場に入ろうとすると、既に入口には進入禁止の看板が設置されてる。その後向かった高速道路入口も同じ状況で、高速道路は使えないと判った。急いで進路を変え、幹線道路や細道を使い、山へ山へと向かうつもりで車を走らせた。

不思議だったのは、山へ向かう自分とは対照的に、殆どの車は海の方に向かって走っていたこと。恐らくは自宅に向かって急いで居たんだろう。そのお陰で逆行する形となり、程なく渋滞を抜ける事が出来た。流石にここまでは津波も来ないだろうと内陸部に入ったが、そこでも尚、四方八方からサイレンが鳴り響き、津波が近づいてますとのアナウンスが再び響き渡る。

降雪の中帰る途中、河川脇を川に沿って走る道では、河川が逆流してるのに驚かされ、更にその濁った川の中には家の屋根が見え隠れしている。恐ろしい光景を目の当たりにした。

また信号が機能しないだけでなく、倒れかけた電信柱や、切れて垂れ下がった電線が道路を妨げてる交差点もあった。そんな中、立ち往生する大型クレーン車を横目に、暗くなった中、急いで家に向かった。

携帯電話は繋がらないのに、不思議とTwitterだけは通じていた。他のSNSも問題なく使えたとあとで知った。その後パケットを占有しない分、震災の時など実用的だと皆が知ることとなる。そして会社の方との連絡は、全てTwitterで行い、自分が無事である事を申し伝えたのだった。

いつもなら一時間で帰れる道のりを、真っ暗な道を三時間半かけて帰宅。当然ながらマンションも真っ暗なまま。階段を使って家に入ると、子供達は布団にくるまって居て、皆無事で安心した。停電中はエアコンも使えなかったが、幸いマンション内は暖かく、暖をとらなくても着込んで過ごす事が出来た。照明代わりの懐中電灯がフル活用。マンションの集会室が避難場所として機能していた事もあとで知った。

それから電気が通じたのは三日目の夜中。久し振りに照明が点灯し、テレビをつけた時、初めての地震津波の映像に釘付けとなった。

そしてその数日後、原発事故を目の当たりにするのだった。

生活スタイルは変わるだろうか?

お題「#この1年の変化」

反論を恐れずに言うならば、僕は昔より今の方が良いと思えるケースが多い。

例えば映画やコンサートなどでは、両隣に知らない人が座るのは気になるし、電車やバスなどの公共の移動でも、隣が空いてた方が良い。鮨詰め状態よりは、余裕があった方がホッとする。

飲食店では知らない客同士が近くに座るよりも距離があった方が良いと感じるし、お酒が伴った席なら尚更、直ぐ隣の席で話している事が筒抜けだったり、煩くて相手の話し声が聞こえず、大きな声で会話するよりは、個室の方が良いと感じる。

喫煙される場所も少なくなったから助かるけど、それでも尚綺麗な空気の循環を感じる方が良いから、自然と空気が淀んだり悪いところを避ける様になった。

密閉、密集、密接とは上手く言ったものだと妙に納得したし、全く異論はなかった。

仕事柄と言うのもあるけれど、真夏の暑い日は別にして、自分はそれ以外マスクを着けていることがもともと多かった。春は花粉症の予防に、秋は風邪予防に着けていると、逆に風邪ですか?と聞かれたりする。冬は暖かく防寒着の一部になってたりするから手放せない。

マスクという”フィルター”を身に付けていると、妙に安心感が得られるのは気のせいだろうか。自分を隠す様な、人には見られない様な、サングラスの様な効果もあるのかも知れない。

仕事での客先訪問の際も、来てくれるなと言ってきたり、アポなしではまず会えなくなった。つまり昔は当たり前だった御用聞き営業スタイルでは通用しない。社内でもメールは多用されるし「Teams」などアプリや電子デバイスよろしく、Web会議は当たり前、今やインターネットは使って当たり前の世界になった。昔からガジェットやモバイル環境好きな自分には、持って来いの世の中なのでは?とも思えてくる。

そして街中の支払いは、奇しくも国の働きかけで電子決済を奨める流れが始まっていたことも功を奏していると思う。現金に触れることなく決済が行われるシステムは衛生的で便利だし、後から支払い先を見直せたり、傾向を知ることができる点でも面白い。

そんな自分が、コロナ禍に順応できない訳が無い。

しかし、世の中が全てそう言う環境に順応できる仕事ばかりでは無いし、人もまた同じ。これが当たり前に浸透するには、相当の時間を要するだろう。そしてこのままでは経済も立ち行かなくなるから、それもまた良いとは言えない。けれどもこんな環境下でも、倒産する会社も出てくれば、過去最高の売り上げをあげる会社もある訳で、困る人あれば喜ぶ人もあるのが世の常。今後もそう言う流れは避けられないように感じている。

「経済活動と感染予防、どちらが大事?」と言う質問は「お父さんとお母さん、どっちが大事?」「仕事と家庭どっちが大事なの?」と聞かれてるようなもの。どちらも大事だし、要はバランスが大事なんだと思う。

一年前とは明らかに変わった現在地、果たして新しい生活スタイルは浸透していくだろうか?元に戻るのではなく、是非とも人類の新しい世界へと変化し順応していって欲しいと願う。